「身体拘束」の版間の差分

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人間は、基本的に集団になればなるほど「めんどくさい事をするひともまた、面倒くさい」という認定をすることが常であり、このような人間の心理を踏まえた上で、問題解決のために最適化可能な行動を模索できる程度の理性と認知機能を有するスタッフはかなり希少であるということを事実として考えるならば、「どうして身体拘束をやめろと言えようか、仕事が増えてめんどくさくなるのに」という質の集団同調圧力のようなものが自然発生しやすい。
人間は、基本的に集団になればなるほど「めんどくさい事をするひともまた、面倒くさい」という認定をすることが常であり、このような人間の心理を踏まえた上で、問題解決のために最適化可能な行動を模索できる程度の理性と認知機能を有するスタッフはかなり希少であるということを事実として考えるならば、「どうして身体拘束をやめろと言えようか、仕事が増えてめんどくさくなるのに」という質の集団同調圧力のようなものが自然発生しやすい。
==経済的に考えたときの「真の顧客」にとっての経済性==
医療、介護サービスの顧客、といえば、そのサービスを受けるひとである、というのは自明であろう。
しかし本当にそうとはかぎらない。
経済性の視点においては、その顧客のサービスを利用するためのコストとその意思決定を、家族や後見人が有していることも少なくない。つまり、お金を払う人という「真の顧客」が、サービスを受ける、いわゆる顧客と乖離していることが少なくない。
ある一定の条件下において、身体拘束は「真の顧客」へ利益を提供する。
また、「真の顧客」の現象への無関心、こそが、身体拘束が減らない、という現状を肯定している。

2023年6月20日 (火) 09:19時点における最新版

原則「禁止」も、事業所によっては「常用の実態」がある場合がある。しかし、「原則禁止」である。

正規の手続きや正当性の有無に関する判定が重要である。

身体拘束の経済性

身体拘束がなぜなくならないかといえば、経営者と、現場に参加するスタッフの双方に経済性の面でのメリットがあるからである。

これは、本人の自由を制約し、人権を搾取することで、継続的な経済性を得ている構図である。

これは、身体拘束しなければ、本人の生命が守れない事態となっているような状況を除くと正当性は全くないので、経済性の甘いささやきに誘惑されると、知らず知らずに、だれかの自由意思を踏みつけにしてしまうことになり、そうすることに関与することは、「決して仕方のない事ではない」。

なぜ身体拘束は経済的か

経営者的視点と現場スタッフの目線のそれぞれで経済性の観点が重要である。また、上記では書かなかったが、実は家族が顧客である場合、顧客側にも経済性のメリットがあるので附記するが、大きな政治の枠組みに影響を与えている。

少ないスタッフ、マンパワーで、死亡・受傷のリスクを回避できる

これは、いわゆる経営者的なメリットである。何を当たり前の話を、と思われる方もいるもしれないが人口に膾炙しているとはいえない。

そもそも、利益は、

利益 = 売上 - 経費

で計算される。医療保険や介護保険は、どのような優れたサービスを提供しても(逆に低品質のサービスであったとしても)、そこに加算が存在しないのであれば、あるいは、自費サービスでなければ、基本的に一定であるから、利益を増やすためには、経費を節減するしかない。

人件費は経費の大黄な部分を占めるから、施設基準を満たしていれば、人員の数はそのギリギリにとどめるのが数字的には、良い経営ということになる。(もちろん、小手先の経営であり、中長期的には失敗するが、数字に騙されやすい経営者に対してコンサルなどはよく提案する。)

人を減らせば、一般に気付きの数は低下するので、リスクを見抜く機会も低下する。

現場の見守りも減少する。

このような、人的な経済性を最適化することを考えるとき、さまざまな事象が起こりうると都合がわるいので、起こりうる事象は必要最低限に減少させたい。

このような観点で、身体拘束をみると、身体拘束によって、患者、サービス利用者の行動パターンを大幅に制限し、同時に一見してわかりやすい死亡リスクや外傷のリスクを大幅に減らす(数字の上だけのはなし)ことが可能になる。

これは、かなりよく使われている手段かもしれず、スタッフの質が十分でなくても、施設基準ギリギリの人数で施設運営を志向するときに特によく使われている。

現場スタッフにとっての経済性

身体拘束は現場スタッフにとっても大きな経済性がある。

たとえば、言葉で伝えて、リスクが理解できない顧客を外傷や死亡のリスクから守るためには、常時何らかの形で観察し、常に必要時に支援を行える体制を整える必要性がある。

これは、文字にする以上に現場のスタッフに、継続的な緊張状態を強いる。

まして、業務スタッフの感情を逆なですることが常の「めんどうな顧客」と目される人々が一定数顧客中に存在しており、『そのような「めんどうな顧客が死亡、外傷を負うことを防ぐ」ために、自分がコミットしなくてよい。』というのは、心理的に大きな経済性を有している。

このことを論理的に理解したうえで、キチンと身体拘束に「ノー」を言える円熟した、支援者の数は決して多くない。言い換えると、「自分にとっての給与という労働のモチベーションが、自分のふるまいにかかわらず一定の金額なのであれば、仕事はなるべくラクな方がよい」という経済性が存在し、身体拘束がそのための手段として、現場スタッフに暗黙のうちに肯定されてしまう、という構造が生じてしまうことがある。

人間は、基本的に集団になればなるほど「めんどくさい事をするひともまた、面倒くさい」という認定をすることが常であり、このような人間の心理を踏まえた上で、問題解決のために最適化可能な行動を模索できる程度の理性と認知機能を有するスタッフはかなり希少であるということを事実として考えるならば、「どうして身体拘束をやめろと言えようか、仕事が増えてめんどくさくなるのに」という質の集団同調圧力のようなものが自然発生しやすい。

経済的に考えたときの「真の顧客」にとっての経済性

医療、介護サービスの顧客、といえば、そのサービスを受けるひとである、というのは自明であろう。

しかし本当にそうとはかぎらない。

経済性の視点においては、その顧客のサービスを利用するためのコストとその意思決定を、家族や後見人が有していることも少なくない。つまり、お金を払う人という「真の顧客」が、サービスを受ける、いわゆる顧客と乖離していることが少なくない。

ある一定の条件下において、身体拘束は「真の顧客」へ利益を提供する。

また、「真の顧客」の現象への無関心、こそが、身体拘束が減らない、という現状を肯定している。