大人

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何を以って大人の定義とするかは、いろいろな定義があるが、自由度の拡大と兼ね合いが大きい。ここでは作業療法的観点から、大人というものの一側面における本質を規定することで、治療や役割、社会的価値観との整合性の担保、行きやすさの拡大を試みる。

下記で規定する本質的な大人は難しい。その為、一生大人になりきれない人もいる。が、その人らしく生きていけることも許される社会になりつつあり、その点希望が持てる。また、そのような社会にするために大人という存在を今一度規定しておくことが、曖昧で自由度の高すぎる2021/04/23現在の社会と世界に於いてはとても重要である。

長期的計画性を優先する能力

目標や起こりある問題の解決に向けて、長期的視野で計画を立案達成する能力が、大人としてもっとも重要な能力である。

これができる人物は表面上は戦略やキャラクターとしての幼稚を装っていたとしても、交流を重ねるほどに他者からは大人と認識される。

なお、後述の感情に折り合う能力が必須。そこを統合しない上部だけの計画性遵守は、むしろ本質的幼児性の表れである。いわゆる真面目なだけの人間である。

長期的な計画に基づいて、自己の行動を決定、ないし修正し実際に行動することができる能力は、人間としての成熟を象徴し、人を大人足らしめるもっとも重要な要素として規定できる。

感情を統合する能力

後述の論理力が必須。

自分の感情現象に紐づけて整理、統合解釈し、必要の論理と要求、モチベーションなどについて、折り合いをつける能力である。

感情のコントロールはその一部にしかすぎない。

メタ認知など、高度な認知機能が必要で、感情の統合ができない人も一定数いる。

できない人は、自分にはそのような特性があるのだと認知することが大切。

論理力

情報を整理する能力と考えて差し支えない。

後述の言語化とイメージ処理、記憶能力が前提である。

情報を分類したり、抽象化して問題解決に役立てたり、心理的ストレスを軽減したり、モチベーションを高める為の中核的ツールである。

また、高度な認知を要する一貫性を持った柔軟性の保証の基盤となる。

言語化とイメージ処理、長期的記憶能力

メモや記録を使いこなす能力と言っても差し支えない。

一定以上の短期記憶と、想起の能力、感情自覚が前提となる。

頭の中で、情報の運用が完結すれば、なんの問題もないが、普通はそれでは頭の中の処理能力が不足してしまい、記憶の脱落や物忘れがおこるので、それを前提として生活やタスク処理のフローを構築する。

時系列の概念の理解と実感も記憶が実用になるためには必要である。

時系列

世界の中に自分自身を情報として位置づけるための見当識の基本となる情報。想起を行うためのトリガーとなる情報のひとつ。

短期記憶

短い間であっても、なるべく情報を鮮明に認識し保持する能力。

短期記憶の容量が少ないと、何でもかんでも処理しようとすると混乱してパンクする。感情の奔流やパニック、場合によっては発作等につながる。

感情の知覚、認識

自分の内的な快、不快の情動に名前をつけて分類できること。

簡単なラベリングで構わない一方、プリミティブとはいえもっとも初歩的な言語運用能力を必要とするため、言語情報の処理が、備わっていない場合には、コントロール不能である。

意識の実在性

そもそもの全体として、パソコンでいうところのosにあたる意識のスイッチが切れていると、どんな感覚入力も処理されない。

大人、というよりも、人間の活動性全ての前提となる。

自分という人間を知っていること

自分の好き嫌い、指向性、得意不得意、希望、趣味、満たされる感覚、こう生きていきたいという願望、現在の能力と限界について、情報化して言語化できることが、大人としてのもっとも際立った能力である。

この意味において、大人であることに年齢は関係なく、思春期やそれ以前においても大人である人はいるし、高齢になっても大人でない人や、大人を卒業する人もいる。

そう認識する方が、自由度の高い社会においての大人像は運用がしやすい。

その他大人と見做される傾向を強める属性としてのオプション

上記の要素が大人としての用件の一つの本質だとするとき、その他の大人らしさとなる要素には以下のようなものがある。

あくまで、象徴であり、時に混乱の要素となりうる。単なるオプションであり気にする必要性もあまりないと言える。

身体の発育、発達、老化

大人の身体的特徴を備えていれば、見た目でそのような判断を受けやすい。

しかし見た目はオプションに過ぎない。

受け取ると提供する能力の比重

一個人、一個体としての単純労働力生産性が高ければ大人として見做されやすくなる。

しかしオプションに過ぎない。

上記の本質の要件について理解でき、実践できる大人の生産性は個体のそれを遥かに凌駕する。

生殖、子育て能力

生殖も近代までは、実際それが判定基準であった。 子供が子供を育てる事例は存在する。

というか、そうである場面がほとんどである。

上記の本質的要件に合致する大人でなくても、子育てできる多様性に向けた支援が必要。

社会的通過儀礼

おまじない、呪術、法律など。

日本の場合には、20歳から法律上は大人である。

しかし、本質的要件は上記の通りであるとすると、そこには非常に大きな乖離が存在すると言わざるを得ない。そもそも、日本の法律が規定された時には現代社会のような情報流動性の極めて高い社会は全く想定されておらず、二十歳になったからといって、十分に大人として振る舞うことを期待できるものでもないし、そのために必要な育成が基本的な教育の中で行えるはずもなく、個人の素質によるところも大きい。

そのため、ただの線引きであり、実態とは乖離していると考えるのが、実際の運用上においては都合が良い。

できることの種類

幅広い領域の幅広い事柄が沢山できると能力が高いものとして見做されるし、実際大人像にはそれを期待される傾向にある。但し、別に応じなくても良い。

経済力もその一部に過ぎず、本質ではない。

知識、経験の量

いわゆる、長老という言葉に象徴されるように、かつては大人の象徴で意思決定に大きな要素であった。 現在は、インターネットで相対化されており、重要度は低下している。 知識と経験の量はあくまでオプションである。 さらに、上記の大人の要件の本質をこの文脈で言い換えるなら、いわゆる知恵ということになる。

知恵がなければ、いくら知識と経験を重ねても、空虚かもしれない。また、上記定義においては本質的には大人ではない。

経歴、社会的地位

キャリアや社会的なポジションによって、大人であると見做される傾向がある。

それもオプションに過ぎないが、無職よりは就労している方が大人っぽいという、偏見がある。

上記の本質に照らせば、あくまでオプションに過ぎない。