知識

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一般的には、「人間の頭の中に蓄えられている情報。知っている事。」といった意味であるが、作業療法士が作業療法を行う上ではより厳密に定義づけて、知識という言葉を用いることが適当である。

実際、「インターネットの発達によって、知識量は代替が可能となっている。」と思われている。しかし、そうではないかもしれない。

また、何を知識として持つかという取捨選択の能力や、すでに知識として持っている情報を別の文脈で活用するいわゆる知恵の能力の重要性の比重が各段に高まっている。

この状況の変化を踏まえたうえで、自分自身に必要な知識を決定する能力が、インターネット以降の時代には必要であるし、当然作業療法士はそれらを適切に扱う能力が要求される。

そして、当たり前のことであるが、ヒトが人間として生きていく上で、必要最低限の知識は確実に存在する。

ここでは、作業療法の周辺で人が生きていくために必要となる最低限度の知識を中心に取り上げる。

人類という人間集団にとっての知識

昔は、知っていることが、生死を分けた。

たとえば、「この場所は危険である」や「ある季節に、このあたりに行けば食べ物が得られる」などは、生命維持に関わる重要な情報であろう。

知っている事には、それだけで、価値がある情報が存在する。

このような情報が、人類が命をつなぐ間に脈々と受け継がれていったものを、知識として定義することができる。

個人にとっての知識

「これはおいしい」「あれはたのしい」など、自分自身との関連性において、物事がどのように感じられるかという対応についての情報はある個人が外界を意味づけを行うときに非常に重要である。

このような意味づけに関する情報は、知識として定義することが出来る。

他人の情報は知識か

「あのひとはこういうものがすき」「あのひとならこういうときにこうする」などという情報は、知識足りえるだろうか。

そうであるともいえるし、そうでないともいえる。

自分ごとのように感じられるのであれば、それは知識である。

一方で、自分の感性や感覚とは切り離された、一つの客観的情報に過ぎない場合には、それは知識ではない。

知識とは自分と関わりのある情報

知識とは、自分自身になんらかの意味を与えうるような情報のことである。

自分自身という存在を形作る情報の集合が、知識である、と言い換えることもできる。

逆に、自分にとって何の意味もないことは知識ではなくただの情報の羅列に過ぎず、他者からみてもそこに意味性が生じるかどうかは偶発的なものとならざるを得ない。

逆に、自分自身との関連性において、ありとあらゆるものを語るとき、それは他者の目には、それらがその人の知識であるように映る。