家族

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一般に、家族は個人にとっての、最大の支援者であり、同時に最大の加害者となりうる。

要するに個人にとって家族という関係性は計り知れない影響力を及ぼす。

この影響力をうまく行使できることが、社会性の最も基本となる能力であり古い社会においては、その人の社会人としての能力を測る一種のバロメーターとして用いられてきた。

新しい世の中において、これまでの家族の形を一度再考し、社会の中にどのように位置付けるかがいま問われていると言える。

家族の影響力の大きさ

現実問題として、どのような人間を家族として持つかということは、その人の人生に少なからぬ影響を与えうる。もちろん、家族を他人として分離して考えられる場合には、この指摘には当たらないが、一般には、家族は自己の一部ないし、相当に関連の強い存在として無自覚の同一視が働くことになる。

つまり、人にとって家族が持つ意味性や影響力は計り知れないほどに大きく、そのため自分の振る舞いが家族に与える影響について人は常に自覚的であることが、一社会人としての振る舞いの根底に求められると考えるのが、これまでの日本社会のあり方であり、今もその流れが続いている。

実際のところ、家族だから何でも許されるわけではないが、家族だからこそできることは沢山ある。

日本社会では、その影響力の広範さゆえに、それを行使することが社会から期待された社会システムが法律という形で現在運用されている。それはつまり、例えば福祉のリソースの多くを家族の善意に頼っていたり、その善意を家族に強要している。それが、きょうだい児や、義理の親の介護問題などでより色濃く浮き彫りになるようになってきている。

社会がより自由に個人の選択を尊重するようになっているため、「家族の面倒は家族が見るもの」という理念によるそのギャップが家族を苦しめることにつながることもある。

家族が問題を拡大させる構図

三人寄れば文殊の知恵ということわざが存在する。

これは、集団の集合知について述べていることわざであるが、集合知がメリットとして働く前提として、個々の構成員が自分自身で考えたときに半分以上正解できる可能性がある事は周知されなければならない。

ここがそれぞれで問題解決を試みるとき、正解できる可能性が半分を切っている集団において集合知の枠組みを実践すると、なんと一人一人で考えるときよりも還って間違える可能性が上昇するのである。

家族においてもこのような特性は存在しうる。

また、遺伝的素因が背景にあるとき、家族間で同質の問題を抱えていることも多い。

このようなときに集合知の枠組みを運用するのは危険である。つまり、数理的モデルで考えると、家族全員の同意のもと誰も幸せにできない間違った結論を導き出しでしまう傾向が高まるということである。

家族内に対する外部の支援の必要性

このような問題構造を抱える家族関係においては、自発的に問題解決を期待することは、数理モデル上確率論的には誤った判断であると言える。

つまり、困難を抱えた家庭の問題を積極的に解決する事を試行するとき、外部が積極的にその家族に介入することが必要となるということである。

現行の法律や制度においては、家庭の密室に対して、行政が積極的に介入を行うことができるように仕組みが整備されてはいない。これは、集合知や家庭内での自浄作用がうまく働くことを期待していたり、「うちはうちよそはよそ」の考え方に基づいて制度のレベルで家庭自治が叩くことが社会市民の当然であると見なされていたからである。

しかし、現状として、比率として決して高くはないにせよ、そのように家庭内で問題を拡大させてしまい、いよいよ家庭としての形が保てないほどに問題が大きくなってからようやく行政が介入するような事象事例が報告されている。

注意として、家族の個々の構成員が、それぞれ半分以上正解できる程度の能力を有しているときにはこの指摘は当たらないので、現状の家族を尊重する仕組みがうまく働くことが期待できる。家庭に行政が介入する必要性は全くない。

行政が家庭内なんでも介入すればいいというものではなく、根拠となる判断基準を用いて、問題がある家族にはその問題を社会が一緒に解決することが当然のものであるとして、どんどん早期から家庭内介入を行う事が理にかなっているということが社会やそれぞれの家族間の理解として当然のものとなり、その支援を安定供給する仕組みが構築されることが今後の日本社会においては必要とされている。

家族が家族を支えることは当然か

これは現実的な話として、当然ではない。

実際の話として、精神疾患を抱える対象者の方が家族と連絡を取ることさえできなかったり、介護に疲れ果ててボロボロになった家族が病院や施設に本人を預けて以降心理的にどうしてもその人に向き合うことができない、会いに行けないということが実際問題としてあるのである。

家族が家族を支えることは決して当たり前のことではないし、家族の善意によるものに過ぎない。

家族の構成員としては、家族に対する感謝を伝える事を忘れてはならない。

より広く、一般的に考えたときに、家族の関係性になんらかの「当然」を強要すると、これからの時代の家族関係は容易に崩壊すると言える。

それは社会の価値観が多様となり、社会の中で生きていける場所も多様化しており、個人を支えるネットワークも多様化していることで、個人が家族に依存しないと生きていけない構造は過去のものとなりつつあるからである。

老若男女問わず、これ間での古い考え方の家族論を振りかざしていると、実社会との間に強烈なミスマッチを引き起こし、結果家族に置き去りにされてしまうリスク可能性はこれからの時代極めて高いと言える。

家を守るという家族観

余程社会的な価値がある家柄以外は、それを保っていくことは今後かなり難しい時代になると言わざるを得ない。

まず、人間と土地とが分離されるようになっており「先祖代々の土地」という考え方に魅力を感じる若年世代がほとんど育っていない。

漠然と「ふるさと」という言葉であるが、そこを守るという意識は、2000年以降の若者においては特に希薄であり特殊な価値観さえ見なされているかもしれない。これは、世界のグローバリズムとその後のインターネットの強烈な普及によって、個人が見る世界が格段に広がり、個々の人間が知っている世界が「先祖代々の土地」の周辺の話題よりもそれ以外の世界の話題のことに関心が大きく移行してしまっていることが大きな要因と言える。

愛着がなければ、守るという発想は生まれず、そもそも関心すら抱かれない。

家族の歴史やルーツというものには、なんとなく関心があってもそれが自身のアイデンティティを大きく左右するものでもない世の中になりつつある。それは同時に個の存在をかつてないほど脆弱にする可能性もはらみつつ、家族というものが「家柄」を守るための機能であるという考え方はやはり過去のものとなっていくであろう。

子供が親の面倒を見る時代の終焉

すでに現実のものであるが、例えば認知症となった親の介護が子供がキャパシティーを大きく超えたとき、その子供は何か重大な局面以外は親の面倒を見ることはない。

主に面倒を見るのは、病院や施設である。

これからの時代はますますそれが主流となるであろうから、マンパワーとして子供が親の面倒を見ることが当然だった時代は過去のものとなっていると言える。

旧時代的な価値観のみを持ってそれを否定することはできないし、逆に若年層はその価値観を批判することもできない。お互い仕方がないと諦めて、建設的にどうするかを決めていくしかなく、とはいえ結論としては、子供が親の面倒を見る比率は少なくなっていくであろう。

扶養義務

扶養義務は成人になった場合に発生しうる。

裁判所で扶養義務が決定されると大変な負担を負うことになる。

自分が思いもしなかった人物の扶養義務が発生しないように、対策を打つ必要がある。

くわしくは 扶養義務 の記事を参照のこと

家族問題

養育 監護者の申立て[1]

 長年、孫の親代わりをしてきた祖母が、実の母親である娘を相手取り、孫と一緒に暮らし、世話をする「監護者」に自分を指定するよう求めた家事審判で、最高裁第1小法廷(池上政幸裁判長)は「父母以外の第三者は、審判を申し立てることはできない」と初判断し、認めない決定をした。29日付。

 家裁と高裁は監護者指定の申し立てができるとしていたが、最高裁は覆した。

 決定によると、娘は2009年に出産し、翌年に離婚。祖母、孫の3人で約7年間暮らした後、1人で家を出て再婚した。孫は再婚相手との同居を拒み、祖母との生活を続けたいと希望したため、祖母が家裁に審判を申し立てた。

婚姻関係

パートナーシップと呼ぶべきかもしれない。

パートナーシップの記事を作成したのでそちらを参照。

他者批判の材料にされてしまうような婚姻が世界には存在する。13才の少女が、72才男性と結婚するパターンなど。 そんな婚姻関係とんでもない、と思うような歳の差婚などにどのようにそれぞれが向き合うかに、正解などない。

ただ、親の頭で、『よくない婚姻である』と決めつけてしまうと関係性が断ち切れて絶縁という取り返しのつかない結果にることがある。[2]

それぞれの意見をとりあえず確認して、反対なら反対で構わないから、関係性が持続するようお互いが務めたいものである。そうも言っていられない、余裕のない事象の場合もあるので、専門家の力も借りたいところである。