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死という言葉は、物理的なものから、メタファーまで幅広い事象に用いられる言葉である。作業療法にはそのどれもが重要である。

精一杯生きるためには死について考えることが不可欠

死について考えることは、実は、今を精一杯生きることに直結する。

死には、さまざまな解釈が存在しうる。来世への連続性を定義することもある。

しかし、一番はっきりとしているのは、結局のところ死んだらどうなるのかは誰にもわからないということである。

つまり、今この生を精一杯生きるということが何よりも現実的で大切である。

そのためには、人生が終わりのあるものであるということを明確に意識し、その前提のもとでありとあらゆる判断を下し、その判断や決定に個々人が責任を持つことで自らの人生に対する主体性を発揮することが極めて重要である。

そのためにも、十代の前半から早々に自らの死について考え、それを通してどう精一杯生きるかを考えなければならないが、日本人は死の概念を遠ざけがちである。

そのため、いざ死に寄った時に、狼狽することが極めて多い。

人は、死が目の前に迫ってから、「どう生きたいか」の問いに向き合うには少し弱い生き物であるので、人生の早い段階から自らの人生をどのようにデザインするのかという視点で、死と向き合っていく必要がある。

そのためには、死について障害を通して学んでいこうとする姿勢が必要不可欠であるといえる。

死から逃げるのではなく、死と向き合い続けて、その中で生の喜びを勝ち取っていく生き方がが自由度の高い社会においてはとても重要である。

生物学的死

生命が、連続的な生命維持に関連する活動を停止した状態。

よりマクロに見れば、恒常性、ホメオスタシスがうまく働かなくなった状態とも表現できる。

ある動物が、心臓が動かなくなったり、神経の活動が途絶えて、個体としての生命活動が継続できなくなること。

人間の死

人間の死は、医療の現場においては基準を設けて定義されている。

法律上は、誰の目にも明白に死んでいる人であったとしても、人間の死を診断できるのは医師のみである。

死亡診断には、明確な手順がないようであるが、インターネット上では

多くの場合、睫毛反射・対光反射(直接反射、間接反射)の消失、胸部聴診(心音・呼吸音の確認)、橈骨動脈・頸動脈の触診をおこない、心電図モニターで脈拍がゼロで平坦であるのを確認[1]

という記述を参考にすることができた。

脳死

脳死は、不可逆的に脳が死んでいる状態で、身体は人工心肺などの力を借りて維持されている状態である。

しかし、脳は不可逆的に死んでいるので、決して回復することはないと断言できる状態である。

脳死は極めてデリケートな問題である臓器移植に関連するので、かなり厳密に死亡診断が定められている。

日本臓器移植ネットワークのホームページによれば、

「深い昏睡にあること」、「瞳孔が固定し一定以上開いていること」、「刺激に対する脳幹の反射がないこと」、「脳波が平坦であること」、「自分の力で呼吸ができないこと」の5項目を行い、6時間以上経過した後に同じ一連の検査(2回目)をすることで、状態が変化せず、不可逆的であることの確認をします。なお、6歳未満の小児は脳死判定を24時間空けて行います。 以上、6項目を、必要な知識と経験を持つ臓器移植に無関係な2人以上の医師が行います。[2]

とある。


脳死する前の臓器移植が試行されるようになっている。[3]

死と宗教

宗教によって死の定義やその解釈は異なる。異なる宗教間で話題とする時には、比較的デリケートな話題である。

無宗教の場合でも、各宗教における死のシステムとプラットフォームについて客観的に知っておくことで、余計な心理的トラブルを未然に防ぐことに有用である。

日本には宗教の自由、信心の自由があるので、自分にとって受け入れやすい死の概念を各人それぞれ自由に選ぶのが大切である。どれを選んでも正しいも間違いもなく、唯、自分の心と生死感に馴染むかどうかのみが重要である。

自分の生死感を尊重して初めて、他人のそれも尊重できるということを心に留めておかなければならない。

葬儀

また、属している宗教によって死後の葬儀のスタイルは大きく異なる。

参列する場合には、各宗教の礼儀作法を十分に尊重する。

日本仏教における死

概ね日本の仏教は、個体の生物学的な死に魂魄的概念、連続性の概念を取り込んでいる。人生の理不尽に対応する考えとして輪廻転生が説かれており、今のこの生での生き様が次の生(いわゆる生まれ変わり)に引き継がれるという考え方がある。

仏教で悟りに至ることで、輪廻の輪から抜け出して、真の安寧に至ることができる。

死のうが生きようが、輪廻から抜ける解脱をしない限り、死そのものは些末なものである、というのが仏教における死の解釈である。

死を些末であるとすることで、その恐怖を遠ざけることに成功している。

神道における死

死んだらみんな神様になる。

生まれ変わりはなく、黄泉の世界から、現を見守る存在として存在しづけることになる。

死んでも霊的存在となってあり続けることができるので、消失の恐怖から解き放たれることに成功している。

キリスト教における死

カトリックとプロテスとタントで分けるのが適当なので分けて紹介する

カトリック

キリスト信じていれば、復活が約束されるので、簡単に永遠の存在と同一化できる。

信心を真面目に頑張れば、かならずみんな報われて天国に行ける点で、救いがある。

死んだあとの死者に対して祈ることで死者の魂を救済することができるという救いのシステムもある。

死と救いを同一化することに成功している。

プロテスタント

生きている時にキリストを信仰することが全てであり、死んでからもがいても無駄であるという考え方。

精一杯今の人生をいきよう、自分の人生を選び取ろうという主体性と相性が良い。

カトリックや浄土真宗にあるような他力本願を否定している点で、現世における資本主義とも相性が良い。

死と現世の資本主義とのバランスをうまくとることに成功している。

イスラム教における死

コーランを通して、死後の死のシステムはあらかじめ周知される。

それによって、信仰を守るためのジハードに臨む生きた人間の魂を救済することに成功している。

また、死は永遠の生に至るための通過点に過ぎないとされており、死の恐怖を軽減することに成功している。

来世があるので、死んだ人とは来世で会えるという仕組みになっており、他者の死への悲しみも軽減する仕組みがある。

現世での死の不安が強い人には、優しい設計になっており、死が身近な厳しい環境で育まれた宗教ならではである。

無宗教者のある死の定義

無宗教者が科学的事実を信仰し、論理に立脚し人間の希望的観測や想像力や感情を一切排した時、死は以下のように考えることができる。

それは、「睡眠時の無意識が、永遠に続く状態」である。

その根拠は、人間の意識とは、脳をはじめとする神経細胞間の電気的情報に対応するものであり、死によってこの電気的情報が途絶えることは、個人の記憶の情報データベースへのアクセスや、それに基づく人格の形成は不可能となることである。

意識の根拠となる情報を保存する場所が、肉体の消失時に空間に転移するとは考えにくい。そのため、文字通り死後は無であると考えることができる。

この考え方は、恐怖や苦痛などのありとあらゆる不快の感情から解き放たれるという面では救いである。

現世でどれだけ苦痛があっても、死後は無であるということで、現をとりあえず全力で生きることに集中したい人には、とても相性が良い。

参考